『STONER』 / ジョン・ウィリアムズ
★ × 91
内容(「BOOK」データベースより)
半世紀前に刊行された小説が、いま、世界中に静かな熱狂を巻き起こしている。名翻訳家が命を賭して最期に訳した、“完璧に美しい小説”。
友人プッシュ本。折しもちょうど翻訳大賞に興味があったので、第一回読者賞を受賞した本作を読むのに良いタイミングでした。
読み終わってから知ったのですが、なんと初版は1965年!50年前の洋書ですが、クラシックで素晴らしい作品でした。洋書に抵抗ある人にも文句無しでオススメです。
ストーナーという一人の男性の生涯を追ったフィクション。
幼少期から思慮深く寡黙なストーナーは、大学時代に教授になることを決意し、教授になってから結婚出産、或いは不倫や派閥争いや闘病といった、人生の光と影を経験していく。
これらイベントを時系列に、縦軸に気持ちのアガリようでプロットするとそれなりに変動量が大きいグラフとなりそうですが、読んでいると波が小さいことが分かります。
それは「基本的に悲しい」というこの作品の特徴に起因していると感じました。
彼は優秀な教授であり、同じく優秀な同僚や指導生徒に恵まれている一方、美しい妻と可愛い娘を持ち、精神の不安定な妻に代わり家事や育児もこなす、
傍からすればどっからどう見ても幸せな中年男性であることが表面上では分かる。
だから書き手が変われば単にハッピー野郎のそれなりの人生を描いただけの陳腐な描写になっていたのかなぁと思いますが、
著者であるジョンウィリアムズさん、そして訳者である東江一紀さんが創り出す「基本的に悲しい」空気によって常に読んでいる最中「これで良いのか?」という問いを突き付けられているよう。
その問いっていうのは勿論作中のストーナー自身に向けられてものですが、進むにしたがって徐々に、作品を飛び越えて自分自身に訴えかけられているように感じられました。これは本当に稀有な体験でした。
このニュアンスは伝わりにくいですが、例えばテニスや格闘技を観ていて、ラスト1点や1本の場面で心の底からその選手を応援している最中に、ふとその選手に自分の心が乗り移って、巡り巡って何故か「俺、頑張れ!」みたいな錯覚を起こす経験、ありません?(ないか、俺だけか)
余計分かりにくくなったかもしれませんが、とにかくそういった経験を本書でしました。
たかが文学作品にそこまでの投影をさせたのは勿論著者及び訳者の技巧で、私が個人的に好きだった文章を以下に挙げておきます。
「さて、話してくれる気はあるかな?」グレースが小さく柔らかな笑みを浮かべる。「話すようなことはあまりないの。わたし、妊娠した」「確かなのか?」グレースがうなずいた。「お医者様に診てもらったの。きょうの午後、診断書が届いた。」「うむ」ストーナーは言って、おずおずと娘の手に触れた。「心配することはない。なにもかもうまくいくから」
とても優しく器の大きく聡明な父親に見え、最後の一言で動じていない様子を見せるストーナーですが、ここでも胸がキリキリする悲しみがどこかあって、ある種の諦念というか、全ては己の責任でどうにもならないといった思いを感じさせる。
何なんでしょう、まるで自分が追い詰められているようで(じゃあ読むなよって話ですが)、それでもストーナーから目を離せない状態で最後まで読み切ってしまうこの中毒性。
起伏の無い、なのに一気読み間違いなしの小説。おススメ!