昨日は深夜に娘のドロップキック喰らって目が覚めてから妙に冴えてしまったので、3週間ぶりのフリースタイルダンジョンをリアタイで観た。やはり、W杯よりも何よりも今面白い、、今週も烈固観れたし、DOTAMAさんとACEの試合もかなりアツかった。初代はパブロもチコも含め、2代目への説教とゆうより「もっとやれんだろ?」とゆう煽り的な闘い方をしてるとこに愛を感じる。来週は漢さん!楽しみが尽きず実に幸せ。んで今朝起きててから昨日はW杯の準決勝もやってたことに気づき、折角起きてたなら観りゃ良かったというミーハー心も生まれた。
新潮クレストの『べつの言葉で』という洋書エッセイを読んだ。ここ最近で一番のヒット!
著者は母国語がベンガル語、ただ育ったのはアメリカなのでネイティブアメリカン英語。ただ結婚してから移住したローマでイタリア語に出会い、やがてその言語に没入し、とうとう本作でイタリア語を使ってエッセイを綴った、という意味でのこのタイトル。んで読み手の俺は英語もソコソコで当然ながらイタリア語の知識はゼロ、更にこれを日本語に訳した本書を読んでるので、著者のイタリア語が違和感があるとかどうとか、そんなことはつゆ知らず、素晴らしい訳者によって丸められた美しい日本語で書かれた本書でしか著者のエッセイは読めない。
ただ、それでもホンマに素晴らしかった。何が良いってもう、とにかく著者の、言語に対する愛情。そもそもが文筆家だし愛情はあって当たり前やねんけど、他言語に恋してエッセイ書いちゃうくらいの言語フリーク/ジャンキー/モンスターっぷり。滲み出るその性を表す文章は引用すると例えば以下。
自分を表現するべつの言い回しを見つけると、エクスタシーのようなものを感じる。知らない言葉は目もくらむような実りの多い深淵を象徴している。(「辞書を使って読む」)
毎週小児科に通って体重をチェックしていた数週間のことが頭に浮かぶ。1グラムまで細かく記録され、評価された。その1グラム1グラムが彼らがこの世に生き、存在していることの具体的な証だった。わたしのイタリア語の理解も同じように増している。わたしの語彙は1日1日、単語1つずつ豊かになっている。(「言葉の採集」)
到達不可能に思えるあらゆるものの前で、わたしは驚嘆する。物事への驚きの感情、驚愕がなくては、何も書くことはできない。もしすべてが可能だったら、人生に何の意味や楽しさがあるだろうか?もしわたしとイタリア語の間の距離を埋めることが可能だったら、わたしはこの言語で書くことをやめるだろう。(「不可能なこと」)
生まれたばかりの赤ん坊のように抱きかかえているわたしのイタリア語を守りたい。よく眠り、しっかり食べて成長してほしい。イタリア語に比べると、わたしの英語は毛深くて体臭のきつい若者のようだ。こっちへ来ないで、休んでいるあなたの弟の邪魔をしないで。あなたのように気ままで、元気いっぱいで、自立した男の子ではないの。(「毛深い若者」)
俺が本を読んだりラップが好きだったり外人と喋るため英語を勉強したり、それは言葉を扱う行為そのものや、上手に扱ってる人のことが好きだからなんやろうなぁとは昔から思う。そうゆう意味で本作で滲み出てる著者の言葉への思いの強さは、「俺は言葉が好きだ!」と言っちゃうのが恥ずかしくてケツから火花出るほど俺のとは雲泥の差がある。ただ、世の中にはこんなにも言葉を愛する人が国内外問わずいるんだなーと思えたことにホトホト感動した。と同時に、日本語しか知らず英語もマトモに喋れない己を恥じる思いもある。せめてやっぱり、せっかく外国人社員が比較的多い今の環境を活かさない手はなく、英語だけでももっと勉強しようといつ自己啓発にもなった。これまでの価値観を改めさせられたという意味で本作はめちゃめちゃ良かった。