昨日は娘の保育園のフラダンス発表会やった。駅前に最近できた、アメリカナイズドされた喫茶店でコーヒーを買ってから朝10時ピッタリとのんびり会場に着くと、既にそこには親御親御親御親御、満員の親御親御ry、空いてる席は無かった。皆様の手には戦場カメラマンかよと思うほどのゴッツイカメラとビデオ、俺らの手にはスティーズジョブズの愛したiPhoneだけ。そこまで本気にならんでも、、と初め冷めた目で見てたが、娘の順番が近づくにつれ急激にコーフンしてきて、いざ猿の被り物をした彼女が現れてから刹那、
- 最前列を陣取らなかった俺
- 良いビデオカメラを準備してなかった俺
を1億回ほど恥じた。
「だ、誰か酸素、、!可愛さで溺れそう、、!」
全親共通の感情やろけど、我が子の可愛さはやはり異常。気付けば良い画角で撮れるよう必死に動く俺がいて、娘を遮って前のめりで踊る隣の男の子に対して「どけよ障害物!」と心の中で悪態付く俺がいた。ああ、人はこういった経験を積み重ねて立派なモンスターペアレントに進化してくのねとつくづく思った。帰ってから撮った動画を観るとクッソ粗くて、緊張の極限ゆえ全く微動だにしない娘が映ってた。ビデオカメラ買おうかしら、、
映画に引き続き、原作版『万引き家族』を読んだ。映画を観てから小説を読むてのはいつぶりやろか。
いつだって「文字か映像か」てゆう議論はあるやろけど、俺の持論はバカみたいやけど「先に読んだ(観た)方が面白い」。今回もそうで、映画では読み取れ切れない登場人物の気持ちの機微みたいのは小説で文字で起こしてもらって初めて知る驚きが多かったけど、それでも映画で初めてストーリーを堪能した時の良さには勝てなかった。
映画を観てから小説を読んだ時の、いい意味でも悪い意味でも一番の違和感は、安藤サクラ演じる母親・信代から、小説の中では物凄く「母親観」が感じられるとこやった。映画は勿論小説よりも多くを語らんので、淡々と旦那・リリーさんをいなしたり、淡々と祥太や凛を愛したりする安藤サクラはそれはそれは凄く合ってて、どちらかと言うと物語の悲しみの深さを浅くする効果を持った役割を果たしてたと感じた。ただ小説やと、子どもたちを心から愛し、家族の在り方を常に考えてるような芯の強さが要所要所で出てて、且つこれが監督是枝自ら筆を取った間違いなく原作なので、あ、こんな信代を伝えたかったのか、と、小説を読んで初めて知った。
もし、ゆりがすごく性格のゆがんだ子でいてくれたら、自分の性格や意地の悪さをあきらめられたのに。ゆりみたいな子がいたら、自分の欠点は自分の責任だと認めざるをえなくなる。
自分で選んだほうが、キズナは強いのだ。信代は本当にそう思っていた。
何も知らないド素人考えでいくと、是枝さんが真に伝えたかった信代の思いを、安藤サクラさんの独自の解釈によりもう一歩踏み込んだ作品に昇華したみたいな印象がある。けどこれは原作読んでから映画観るとまた違ったりするものやろから、あくまで俺が映画の後に本を読んでそう感じたというだけ。役者の方々があまりに良かったので、顔を思い浮かべながら本を読まざるを得ない感覚になって、やっぱどちらかと言うと本→映画の順が合ってると感じた。
ともあれ、やはり素晴らしい作品でした。特に「血の繋がり」、これは今年の個人的な一つのテーマになりました。