先週までフリースタイルダンジョンに心奪われた日々やったけどジワジワと日常にカムバックしてきた。K-1の武尊と皇治のイザコザがタイムラインに流れてきて、今更ながら格闘代理戦争の最新シーズンを見始めた(現在2話目)。コーチ陣は大体知ってたが、青木真也が以前ベタ誉めしてた芦澤という選手は知らなかったのでワクワクして観たら、さすが華のある素晴らしいキャラやった。Abemaのいいとこはこういった選手を惜しげも無く出して、胸焼けする程煽ったりイジったりするところ。あと木村ミノル。RIZINでは何とも苦々しく散ったままやけど、立ち振る舞いも言動も全部サマになって男として惚れる。立ち技で良いから地上波にもっかい出て、言葉は悪いけど客寄せパンダになってほしい。
森達也さんの『A』を読んだ。この夏は森達也にジワジワと浸かり始めようと思います。
オウム真理教のドキュメンタリーシリーズの最初。著者がオウムの広報担当である荒木浩をつてに何ヶ月も潜入取材し、そこで見聞きしたことを著者の哲学とともに綴ったドキュメンタリー作品。同名の映画もあるらしく、早速今週末観ようと思う。
とにかく素晴らしかった。読む前は正直言って、「オウム」を題材にすることで人の心をくすぐるキワモノ作品とかとも思ってたけど、オウムはあくまで表面上のテーマ。本質は密着によって生まれた宗教やドキュメンタリーに関しての著者の考察で、至る所にそれらが詰め込まれてたのが良かった。
例えば以下のように、報道されないオウムの真の姿、をあぶり出すための密着取材のハズが、ひとたび「報道する」行為に変わった途端、別の意味を持ってしまうという葛藤をこう書いてる。
自然なドキュメンタリーなど存在しない 。撮る行為によって撮られる側は、時には触発されるし、時には規定される。そしてまた撮られる側の反応が、撮る行為に大きな影響を与える 。
事実と報道が乖離するのは必然なのだ。絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの嗜好や感受性が異なるように、事実も様々だ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。
本書が出たのは20年前やけど、上の言葉は今の世界にもそのままそっくり刺さるあたり、本質を突く言葉ってのはこうゆうことかと感心させられた。何かを人に伝えるために編集する時点で、もはやリアルと捉えちゃいけないんやなぁ、そういう意味ではドキュメンタリーって何なんやろなと考えさせられた。
一番響いたのはココ。
皆それぞれの事情や家族や過去を背負いながら、必死に毎日を生きている。大事なことだ。誰もが懸命なのだ。誰もが必死なのに、どこかで何かがくい違い、何かが短絡し何かが過剰になって、そして皆傷つけ合っている 。
これはともすれば「だからオウム信者が犯罪を犯すのも仕方ないって言ってるんか!」と、著者を擁護派に仕立てて怒り出す人を作り出す言葉かもしれへんけど、そこでオウムを敵として受け付けんくなって思考停止しちゃうんが一番マズい。本作全部読むと著者が擁護派か否か2値化することが如何にダサいかが分かる。中盤からひたすら「なぜオウムがあんな事件を起こしたんか、思考停止するんじゃなくて考えろ」って言ってるように思えた。なのでシリーズを追っていこうと思います。