滝口悠生さんと植本一子さんの共著。
そもそも往復書簡ってほぼ初めて読んだ気がする。この、一方が書いてもう一方がアンサーして、んでそこからまた話が派生してっていう打ち合うシステム自体めちゃ楽しめた。読書って、読みながら内容に感化されて自分の中の思考もいろんなところに飛んでくけど、基本的にスタンドアロンな作業やから、読んでる最中はその思考を特に誰とも共有できずに、読み終わった後に初めて、人と喋ったり、他の人のブログとかレビュー読んで、あぁみんなはこういう風にも感じたんかーってことを知 る。やけど往復書簡は、一方が書いた内容についてすぐ後にもう一方の書き手がいわゆる即レスするから、自分以外の人がどう思ったかってことをすぐ知ることができるっていう。これめちゃいいな、ハマる。たしか昔読んだ森見登美彦さんの「恋文の技術」が、往復書簡の形態をした小説やった気がするけど、アレは小説やしちょっと違う。こういう往復書簡、もっと読みたい。探そう。
1回目の植本さんからの文章に対する滝口さんのアンサーが、いきなりドンズバでブッ刺さってもた。滝口さんの文章、こんなにすごいんか。同じく日記調のアイオワ日記読んだときは正直そこまで感じへんかったけど、一文一文が何行にもわたって句点なく続くのに、平易で優しいワードでロジカルに心情を表現されてる感じ、どんどん心が落ち着いてくる感覚で気持ちよすぎる。あと「少しでも 安心したいとか、少しでも得をとろうとするひとがそこに殺到する、そんな構図が心底嫌い。」てとこは、「滝口さんもそうなんや、、!」とめちゃ救われる思いやった。本文で出てたんは、保育園選びの時に、住んでる場所とかに依って条件の差があって、自分はどれを選択可能で、どれが最良か、みたいな思考にならざるを得ないのが疲れる、っていう話。もう、もう、首ブンブンしてもげ落ちる程、共感。例えば物を買う時とか、とある場所に行くには何通りも方法がある時とかに、1円でも・ 1分1秒でも得する選択はどれかってことを、めっっちゃ調査して答えを導き出すっていう人。友だちや親戚にもおる。勿論その人にとっては、そのプロセスも込みで楽しんでるんやとは思うけど、俺はそれ、死ぬほど苦手。全国でワースト10には入るやろなってくらい苦手。「Don’t think, feel」てゆうブルースリーの名台詞、俺は完全にそれ。たくさん調査することによって費やされるその時間こそお 金に換算したらなんぼやねん、てゆう思考になってまう。 滝口さんは本の中で、自分の好きな考え方で決められるようになったのは大人になって快適やけど、 自分の子どもやとそうもいかず、できるだけ安心で、損をしなそうな選択はどれか、ってことを考えざるを得ないと言ってる。それは俺も子供が生まれてから特にめっちゃ感じてて、今回滝口さんによって白日の下に晒された感覚。「これや俺が思てたん!」てゆう。嬉しかった。
p41の植本さんの章もブッ刺さり。こどもが小さい頃は、自分の付属物みたいな感覚で、ある種それに救われてたという話。ここ2年くらいずーっとバタバタしてるけど、そういう、こどもが常に自分の生活とか心の中心にいるという忙しさってのは、ある種めっちゃ救われてる感じがしてる。保育園帰りの公園でパパママと「大変ですよねぇ~」て言い合うのって、頑張ってる自分たちに酔ってるような、ある種の育児ハイ状態みもある。ブラック企業の人らが「連日徹夜して頑張ってるよな~我ら」みたいに言い合ってるのと似てるんかな、知らんけど。そのハイ状態により今の自分ってシャンとしてる感覚があって、けどじゃあいざ植本さんのお子さん達みたいに巣立っていったとき自分には何が残んねんやろ、ていうことを想像してちょっと寂しなった。 「同一化していたわけではなくて、分離しながらも一緒にいただけ」てのも、喉の奥がキュッとなる程素晴らしい表現。今パートナーがモンテッソーリ教育のオンラインコミュニティに入ってかなり勉強してるから、その中で得た知識をちょくちょく教えてもらってるけど、モンテッソーリ教育のベー スとなるのは「親も子も対等でありましょう」という思想らしい。それを聞いたときに、植本さんもお子さん達を一人の人間として、個として尊重しているなって感じる場面が日記を読んでると多々あって、哲学は違えどモンテッソーリやん!と勝手に思った。子を持つ身として、毎回姿勢正される。
「家の中には入れ替わりいろんな人が出入りする状態を目指している。」という哲学も相変わらず 素敵。これは他の日記本でもちょくちょく書かれてたけど。学問としての家族論とか体系立って勉強 したことないから全く知らんけど、昔やと三世代同居、んで核家族化、そして今は遠くの親戚より近くのみんなで相互扶助で生きてくという思想(こういう状態て熟語でなんて言うんやろ)、1人で1人見るより2人で2人見る方が良い、的なこの感覚を、植本さんは先頭切って走って体現しようとしてくれている感がある。