本を読むたびにブログを書く習慣をここ最近失ってしまい、けど書くことは無理なく続けたいので、面白かった本だけをピックアップする折衷案で行ってみようと思う。ブレブレなのですぐ方向転換する気はする。『ははとははの往復書簡』『あしたから出版社』『長い一日』の3冊。
滝口悠生さんと植本一子さんの往復書簡に圧倒され、何かこのスタイルのものをもっと読みたいと本屋を探して至った一冊。日本に住む長嶋さんとストックホルムに住む山野さんの往復書簡。連載当初は二人はほぼ互いのことを知らない他人で、往復書簡を繰り返すことによってにわかに距離が詰まっていき、終盤は呼び捨て/タメ語で展開されるにまでなる時系列がとても面白い。話題は多岐に及ぶが、子育て・ジェンダー・コロナあたりが特にお二人の思想がスイングしてて興味深く、特に読まされたのは距離がまだある初期の段階。確か山野さんが、定量化されたストックホルムの男女平等社会について書かれていて、それに対し長野さんが、仕事や子育てはフィフティフィフティなどと計れない、定量化できない感情があるはずだといったように一石を投じたシーン。それまでは割とビジネスライクな探り合いが続いていたように思うが、個人的にはあの一石でお二人の関係がいい意味で崩れたように感じた。
「子どもに費やす時間や責任や労力がなければどれだけいいかと思うことはあります。でも、いつかそういう部分が自分の生活から消える日への恐れも感じます。遠く離れた人への心配だけが手元に残りそうで。」
後半の対談も圧巻。胸焼けするほどにメッセージが重く、日本に住む身としては他エリアから切ってくる山野さんの言葉が特にヘビーやったが笑、あの対談だけでも価値があるし読んでほしい。
「ある人の労働が直接的な金銭を生み出さない種類のものだったとしても、それが労働の貴賤を決める根拠にはならないことや、困窮することなく暮らすことが保障される権利があるってことを、旦那さんが全く理解してないと思う。パートナーからやる気を奪って精神的に支配する、モラハラ&ジェンダー差別そのものだってことを、エリートサラリーマンやってるいい大人がわかってないって、とことん貧しいよ。」
2009年に著者・島田さん一人で立ち上がった夏葉社、家の本棚をざっと見ただけでも『すべての雑貨』『早く家へ帰りたい』『さよならのあとで』と何冊かあるが、本書はそれらを島田さんがどういった思いで出版するに至ったか、夏葉社ができるまでとできた後について書かれたエッセイ。「本屋さんになりたい人へ」的な安易なメソッド本でなく、とにかく、とにかく島田さんの素晴らしい姿勢や哲学が詰まっていて何度も喰らった。
「本を開き、言葉と向き合うことで、少なくとも日常の慌ただしい時間からは逃れることができる。辞書を引きながら文字を追い、そこに書かれていることに自分の経験を重ね、ときに誰かのことを強く思うことで、自分の時間だけはかろうじて取り戻すことができる。」
「ある日、子どもは、マンガを一冊買えるお金で、文庫本の小説を買う。それは、とてもわかりやすい、大人への階段だ。ぼくは町の本屋さんのそうした日常を、全部、この目で見たいのである。 」
なぜ本を読むのか、なぜ本を買うのか?ということは本を読みながらいつもふと思うし、日々追われている中で敢えて時間を作ってまでどこかの誰かが書いた文字を追うのってなんなんやろ、と心が揺れることもあるけど、それらに対する島田さんからの緩やかなヒントが全編にわたって丁寧に描かれていて、読んでいる最中少なくとも作中に書かれている夏葉社の本は読みたくなった人は多いと思う(実際『レンブラントの帽子』は今売り切れているようやし)。また、出版社を立ち上げるそもそものモチベーションが、大切な人を失った思いから来ているということを知らなかったし、これを知ることで『さよならのあとで』の重みがまた変わってくるので、是非セットで読んでほしい。
『ジミヘンドリクス・エクスペリエンス』から立て続けに滝口悠生さん。昔『死んでいないもの』や『寝相』を読んだ時の「なんだこれは?」という感情を久々に想起させられたと同時に、最近ぬるい本読んでたんやな・・という気持ちにもなった笑。本書は一応小説というスタイルに則って書かれてはいるものの、滝口さんやパートナーが実際に作中に出てくるし、カギカッコの無い登場人物たちの思いがそもそも登場人物の感情なのか、それとも滝口さんご自身の感情なのか、境目がとても曖昧。それら故の「なんだこれは?」感がとても気持ちいい。文章って大体、どれくらいの分量を経て句読点に落ち着かせるのが良いのか、ある程度ルール化された世界の下書かれるものが多いし、読みやすい文章はそのルールの則り方がうまいから”テンポが良い”んやろうけど、誤解を恐れずにいうと滝口さんの文章はそれがない。「あれ?この文章は読み始めた瞬間に思ってたよりもどうやら長そうやな?」と思って読んでたら急に着地する。この感じ。この感じはすごい。うまく言えないが例えば下記。
「長じるにつれ時間は短く感じられるようになって、夏も冬もよく見知った仲になり、・・(中略)・・失われた時代にあるのだと悟り、成長は止まり、体はだんだん老い始める。太ったのもその一環だし、例えば昨日みたいに酔うと記憶がすっ飛んでいるようになったのも三十を過ぎてからだ。あとは小便が我慢できなくなった、それから、と思い至っててるてる坊主の布の下でこっそり確かめてみるとやっぱりだ、ズボンのチャックが開きっぱなしだ。ここにくるまでトイレには寄ってないから、家からずっと開きっぱなしだった。」
窓目くんという登場人物が流れる時間について深く考察している章で、どうやらここは滝口さんご自身の哲学が込められた大事な文章だぞ・・と心して読んでたら、急にズボンのチャック話になってる。目的地まで約一時間と聞いて離陸したら20分後に緊急着陸した、そんな感じ。この小気味良さは他にない。
あと「ジョナサンで」という章は、エッセイや小説で実際の人物が描かれるとはどういった意味を持つのか、考察が長く続くが、ここは文字を普段書かない俺でも震えたし、小説や絵や音楽など表現を生業とした人はみんなヤラれるんじゃ無いか、そう思うほどに良かった。
「その時の私には、きっともっとたくさんの出来事があったはずなのに、あんな風に書かれてしまったら、書かれた以外のことが思い出せなくなってしまうじゃないか。夫ひとりだけが全てを知っているかのようで、私は不服だ。不本意だ。夫だけが全部知っている、そんなはずないんだ。」
「あの日の自分の見たもの聞いたものの全てがそこには書かれていないことが不服で、もちろんそれが誰のことであれ、たとえ自分のことであっても、全てを書き記すことは不可能で、それもよくわかっているつもりだった。しかし、全てを書き記すことなく書き記されたものは、まるでそれがすべてで真実だったかのように思わせてしまう。夫に書かれたあの日の自分の全てを妻はもう思い出せないし自分で書き記すこともできないが、そこに書かれた以外のたくさんのことがあったはずだということだけはわかる。」