『他者の靴を履く』/ ブレイディみかこ
久々ブレイディみかこさん。恥ずかしながら知らなかった「エンパシー」と、著者が他著作でもちょくちょく触れる「アナキズム」を結びつけた見事な作品。めちゃめちゃ面白かった。
エンパシーとシンパシーは日本語ではいずれも「共感」と訳されてしまうそうだが本質的には異なるもので、後者は相手に対する同情や感情という「内からくるもの」である一方、前者は他者の感情や経験などを理解する能力という、要するに「後天的なスキル」らしい(それを本書では「他者の靴を履く」と定義してる)。エンパシーの中でも特に「コグニティブ(認知)エンパシー」は、他者のことを想像するスキルだそうで、それこそ育児やビジネスなどあらゆる場で必要なもので、しかもスキルやから、磨ける。著者はコロナ禍でより浮き彫りになったケアワーカーや感情労働の観点から、エンパシーがいかに今必要で重要かということを1冊通じて説いてくる。
誰かが履いている靴が汚く、臭く見えたとしても、単にそれはその人の顔を見てこんな人の靴はどうせ汚いとか臭いとか思い込んでいるだけであり、人間が履く靴それ自体には、臭いとか汚いとかいう特性はないかもしれないのだ。
迷惑をかけたくないという日本独自のコンセプトは、一見他者を慮っているようでそうでもないのだろう。人を煩わせたくないという感覚は、人にも煩わされたくないという心理の裏返しだからだ。
面白かったのはエンパシーとアナキズムの関係性。アナキズム(無政府主義)は失礼ながら暴力的で過激なイメージを勝手に抱いてたけど、そもそもの意味は「あらゆるものからの自由」という前向きな心理状態で、常に今を疑い、個が力を結集してより良い世界に変えていこうとしていくことらしい。エンパシーが重要とは言ったものの、経済的・心理的に余裕のない状態で他者を推し量ることなどできるわけがない。そこで重要となってくるのは、そういった人々に目を向けて、個々の力で解決していこうよというアナキズムの姿勢を持つこと、という持論に見事に帰着させていた。伊藤野枝の「人間はそれぞれ個性を持って自分の働きを行なっていて、接合する隣とは互いに働きかけ合ってるけど、それを超えた部分への働きかけは許されてない。個々の働きと連絡があちこちでバラバラに行われていて、それが集まって全体としてある完全な働きを作り出している」というミシンの例え(つまり社会)も引用されてて、知ってた分改めてくらった。
あと最後、「犯罪者やサイコキラーに対してもエンパシーは必要か?」という難しい問いに対する著者の考えも良かった。著者曰く、犯罪者に対してでも、他者の靴を履いてみることは大事。理由は、靴を履かずに同じような批判ばかり繰り返してもなんの解決にも繋がらず、他者の靴を履いて理解を試みようとすることで、じゃあ次どうすれば犯罪を防ぐことができるかといった、一歩進んだ洞察ができるから。ふむふむ、これは腑に落ちるぞ、と納得しながら読んでたけど、さらにそのあとに書いてあった「人間はよく間違うから」という理由が、ブレイディ節全開でめちゃ良かった。
人間はよく間違うくせに他者を判断したがる生き物なのである。ならば、あまり間違えないようにする努力くらいはすべきなのである。
時に自分の靴を脱いで他者の靴を履くことで自分の無知に気づき、これまで知らなかった視点を獲得しながら、足元にブランケットを広げて他者と話し合い、その時その時で困難な状況に折り合いをつけながら進む。
つまり、相手が聖職者であれ犯罪者であれ、そもそも自分の考えが合ってるなんて言えるハズないんやから、多少推し量るべきやろ、という理論。めちゃしっくりくる、、笑
んでさらに追加すると、そのあとに出てきた「穏当さ」という言葉、これ、2022年流行語大賞やろ。。
ちょい前から「多様性の理解」て言葉が至るところでめちゃ言われるけど、多様性を理解しよう(つまり他者を否定しない)とするがあまり何も言えなくなるこの窮屈さって何?ていう違和感がずっとあった。けど「穏当さ」(英語で ”reasonableness" )てのは「通約できない価値の間で折り合いをつける能力」らしく、ブレイディさんは
「理解できないことがあっても、どのみちそれを考慮に入れなくてはいけない、ということを受け入れること」
と言い換えてて、これぞ今の俺に必要なワード。多分多様性の理解って、芯からはできない。けど喩え、理解できなくても「それを考慮に入れなきゃ」とは思う。それを見事に言い表してる言葉で、これは今後使っていこうと切に思った。名著!!!!
『壁の前でうたをうたう』 / 中村暁野
前作『家族カレンダー』が思ってたより楽しめなかったのを記憶してるけど、今作は素晴らしかった。著者中村さん宅の隣にリトアニア出身のご家族が越してきた話。夫が日本人、妻がリトアニア人、一人娘がハーフという構成で、購入特典の、ご家族にフォーカスしたショートムービーを観たことも相まって、かなり感情移入して読み込めたし、何より冒頭の中村さんの言葉がめちゃ刺さった。
夫や娘や息子と嫌でも向き合う日々を通して、自分とは違う誰かを受け入れたい、そして受け入れてもらいたい。と思えるようになった。今まで自分の小さな世界の外側に、目も心も向けてこなかったことを恥ずかしく思うようになった。
分かる、、めちゃ、めちゃ分かるぞこの感覚。。子どもが生まれると、否が応でも自分以外の存在を意識せざるを得なくなって、自分がいないと意思決定させてあげることができないという責任感がグワッと伴ってやってくるけど、その壁を越えるとやがて我が子のみならず、他の子供たちや、もっと言うと今まであまり意識もしてなかった会社の同僚とかにも目を向けられるようになった感がある。中村さんご自身もかなり結婚や育児生活に悩まれていたことが前作で語られてたけど、今作は一つその山を抜け、隣人について1本執筆できるほどには打ち解けてる中村さんがめちゃかっこよく映った。
あと後半の文章は、ロシアが戦争を始めたタイミングで書かれたもので、何を思って何を書けば良いか、逡巡しながらも書き進んでいく様は、苦しくもあるけど同時に素晴らしかった。
文章を書くことは、ちいさなとんがった金槌をにぎるのと同じだ。わたしの壁にカリカリカリと、無数の引っ掻き傷をつける。この傷の重なりがいつかちいさな穴になって、壁の向こう側が見えたらいい。
こうやって苦しみながらも出てくる文章は力強くていつも勇気もらえる。(と思ってvoicyでも中村さん聴き始めてみたが、耳で知る中村さんはちょっとあまりしっくりこず・・やはり本に限る)
『自転しながら公転する』 / 山本文緒
遺作『ばにらさま』の一つ前に出た山本文緒さんの恋愛小説。年齢を計算すると本作を当時58歳で書かれているようだが、現代をリアルタイムで生きる層の作家が書いたものとしか思えないほど瑞々しい内容で驚いた。恋愛小説なのでストーリーを書いてしまうとチープに見えるだけやから割愛するけど、驚いたのは、基本的にはちょっと見てられない恥ずかしさを孕んだ、いわゆる「恋愛小説」の描き方をしつつも、登場人物たちが要所要所で発する言葉がパンチラインまみれであるというアンバランスさ。『プラナリア』くらいしかおそらく読んだことないのでこれが山本文緒さんの作風なのかどうかは本作だけでは判断できないけど、そのアンバランスさは決して悪い意味じゃないし、小説でなく著者の価値観や哲学がいい意味で出てた。けど「あぁ、これは小説という形態を借りた、山本文緒さんの哲学本なんだな」と感じ始めたくらいのタイミングで、最後の最後きちんとどんでん返しもしてくれるエンターテイメント性も孕んででニヤケた。「結局、めちゃめちゃ小説やんけ!」てゆう。いやぁーーー見事!