『みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに』 / 小沼理
著者は『 1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』で知った小沼さん。あちらは商業出版やったが、どうやら最近の小沼さんは精力的にZINEを発行されてるらしく本書もそう。タイトルに惹かれ購入した、「人はなぜ日記を書くのか」という振りかぶったコンセプトを基に書かれたエッセイ。
以前読んだ時の印象と変わらずとても丁寧な文体。振りかぶったテーマゆえに書き方によっては説法ぽくなりがちなところを、きちんと自身の経験や価値観に基づいて自分の言葉で語ってる感がある。なので途中、出版して金を稼ぐことの重要性という、ともすれば棘が立ちそうなテーマも自然に納得して読み進められた。
面白かったのは2点で、1点目はコロナ禍における日記文学に関して(これについては前作でも語られてたかもしれない)。
私自身はコロナ禍に突入したあと、他人がこの事態をどう受けとめて過ごしてるんかってことに興味が出て、それを知る最も良い手段が日記やエッセイの出版物やZINEを読みまくることやった。一方、小沼さんは15のときから誰に見せるでもない日記を毎日付け続けて、コロナ禍になってそれを「公開する側」になった経緯がある。
ニーズ・シーズマッチングのように、読んでもらいたい人と読ませてもらいたい人がコロナ禍で紐づく現象は面白いし、俺は「他人について知りたい」という思いからやけど、小沼さんは「自分自身について知りたい」という感情起点で本を出すことになったという結果がなんとも不思議。
日記を書いていると、漠然とモヤモヤしていた気持ちがすっきりするような、少なくともこれ以上は悪くならないような気持ちになることがある。「考えてもどうにもならないことで不安になっているな」とか、「また同じようなところで行き詰まっているな」と、悩むのを中断できる。それは事実と想像を分けることの効用なのだろう。
出版する気は全くゼロの、気づけば惰性で12年続けてるこのレビューブログも、何のためと問われると、「読んだ本を自分が忘れないようにしたい」と漠然と答えてたが、上述のように平易な言葉で言語化されてて、スッキリした気持ちで読み終わりました。
また小沼さんはゲイを公言されてるが、付録にある星野文月さんとの対談で、ゲイが消費されるように本を紹介されることの是非という非常に難しい問いについても、悩んだ時期を経て辿り着いたご自身の考えをキレイに言語化されてて感銘を受けたので残しておきます。
自らのセクシャリティを隠すしかない時代を経て、やっぱり言っていくことが大事だ、という流れが生まれてきたんです。属性だけが切り取られて消費されてしまう側面も、もちろんある。でも、それを書かないことで同じ属性を持つひとに届かなかったり、うまく伝わらなかったりするデメリットを天秤にかけたら、やっぱり書いた方がいいなっていう結論に至って。商品化されるっていう感覚はなくて、むしろ自分がそれを引き受けたっていう感じです。