『波打ちぎわの物を探しに』/ 三品輝起
久々、三品輝起さんのエッセイ!!
版元は『すべての雑貨』『雑貨の終わり』と異なる出版社で、装丁のデザインが個人的にちょっと残念やったが、中身はやっぱ唯一無二。コロナ禍やメルカリの登場、インスタ使ったマーケティング等、前作まででは語られなかった「三品さんならどう捉えてるのか興味あった雑貨界の動き」を読めたのが一番よかった。
「ひたすら無造作であることを追及した作為的な写真」
みたいにインスタを表現する皮肉さ・面白さも健在。ただ、時代の流れからか前2作よりも少しシリアスな印象を受けた。
しばらくすると世の中の見えないカテゴライズの波が到達し、なんらかのせまい界隈へ徐々に押し込まれていくのだ。風変わりなあるじがいて、いろんな界隈の物をちょこちょこ置いて、でもぜんぶはサブカルっぽいロールプレイにすぎず、若干おしゃれ系に傾きつつも、意外とふつうな、、といった、いろんな雑誌やレビューサイトに書き込まれてきた我が店に対する集合意識的な感想が、ゆっくりとふるいにかけられて単純化し、やがて固まってできた小さなイメージの中にまるごと吸い込まれていった。
みたいに、あまりに速い流行の波の中で雑貨がどう位置づけられるべきか、みたいな考察は割と重い。雑貨屋さんのみならず、本屋やレコード屋などの店主は皆、今後どう振る舞うべきかみたいなビットがめちゃめちゃ立ってるんやろうなと思う。
clubhouseが流行った時の「耳の可処分時間」に関する文章も考えさせられた。
動画やSNSのブームで目の可処分時間をあの手この手で奪われ、やがてパンパンになった今、次に狙われたのが耳というセンサ。
俺自身も漏れなく狙われ、そして逃げられなくなった身であり、少しの暇さえあればイヤホン挿して即podcastやラジオを流してしまう(家族からはこの習性についてそろそろ呆れられ始めている)。
三品さんは本書でそれを明示的に批判はしてないが、電車の中でスマホを見ずに遠くを見つめてる乗客が気になるらしく、やはりこの世の中の潮流に思うとこがあるのが伝わる。かく言う俺も違和感は持ちつつも、疲れたときは気づけば結局死んだ目でボトムレス縦スクロールで動画観てしまってたりする。そういうスピード感に疲れたり疑問を持ったりした時、三品さんの文章は最適やなと感じました。
本をおのれのものにすることが大切で、つまり本に書いてあるものごとをじぶんなりに記憶し編集し想起するプロセスぜんぶが重要であり、だとすれば読むことと書くことは、究極的にはひとつながりの同じ行為なのだという確信がある。