キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)
- 作者: J.D.サリンジャー,J.D. Salinger,村上春樹
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2006/04
- メディア: 新書
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『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 / J.D.サリンジャー
★ × 86
内容(「BOOK」データベースより)
J.D.サリンジャーの不朽の青春文学『ライ麦畑でつかまえて』が、村上春樹の新しい訳を得て、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』として生まれ変わりました。ホールデン・コールフィールドが永遠に16歳でありつづけるのと同じように、この小説はあなたの中に、いつまでも留まることでしょう。雪が降るように、風がそよぐように、川が流れるように、ホールデン・コールフィールドは魂のひとつのありかとなって、時代を超え、世代を超え、この世界に存在しているのです。さあ、ホールデンの声に(もう一度)耳を澄ませてください。
友人に「読め、特に村上春樹訳読め」と言われて読みました。
「ライ麦~」ではなく、村上版!
思うとこいくつかありましたのでレビューします。
主人公ホールデンは学校を退学になり、街を出て、一人彷徨いながらかつての友人や出会った人々と交わっていく。
小説としては、彼らとの交わりの中で生まれるホールデンの心理描写が大半を占めており、物語の筋というものが存在しない状態が中盤くらいまで続いたあたりで「これいつまで続くねん…」と、少し飽きてきました。
『僕は勉強が~』は、父親のいない主人公秀美が、ヒトや世の中の仕組みの「アタリマエ」に対し疑問を持ち、彼なり(=山田詠美さんなり)の答えを出していく作品でした。
んで都度弾き出されるそれら答えが、私が普段漠然と考えつつも言葉に具現しないまま放っておいたモヤモヤを表すズバリな言葉であることに感動したし、おそらく読んだ皆さんが共感できるタイプだったから売れたのだと思います。
これが過った理由は、ホールデンの悪態つく姿と、秀美の呆れた姿が「思春期の葛藤」という意味でダブったから。
ただし後者はズバリ葛藤に対する秀美なりの解を示している一方、前者は葛藤そのものを文字に起こした、といった感覚の方が近いのかな、と思いました。
だから一つ一つのエピソードに意味があるというよりは、作品として纏めて著者サリンジャーのピーターパン思想が凝縮されていることに意味がありそうです。
…となると、やはりどうしても気になるのは、それらの葛藤を表すニュアンス、つまり日本語訳について。
村上春樹さんというフィルタを通して、ホールデンは「やれやれ、~だろ?」「なんてこった!」というアメリカ節を連発しますが、話の筋としてはそこまでポップでない印象があるので、はたして「ライ麦」版がどうなっているのか、非常に気になるところです。
私が海外文学にいまいち傾倒できない理由のひとつとして、訳者を介さざるを得ないということがありますが、本書は2人の著名な訳者から出ている分、これが100%の解ではないのかもしれないということが過ってしまいました(じゃあ原著読めって話ですが)。
延々と続くホールデンの悪態ですが、物語の終盤、妹のフィービーが出てくるあたりから、ホールデンの感情が若干揺らいでくるシーンがあります。
ここの描写は、それまでと少し違い「悲しみ」のニュアンスが含まれているような感触で、学校を退学になったこと、親と離れてしまったことがホールデンにとって心を占めていたということが伝わってくる、物語全体に急に深みを持たせるようになっています。
だからこそ余計、ただのピーターパンシンドロームの塊じゃなかった分、「ライ麦~」訳を読んでみたいなぁと思いました。(2回目)
乱文ですみませんでしたが、往々にしてとても読みやすい、時代を感じさせない海外文学でした。