『ポースケ』 / 津村記久子
★ × 90
内容(「BOOK」データベースより) 奈良のカフェ「ハタナカ」でゆるやかに交差する、さまざまな女の人たちの日常と小さな出来事。芥川賞受賞作『ポトスライムの舟』から5年後の物語。
「ポースケ」という祭りを自身の経営する喫茶店で開くまでのお話。
とはいってもポースケ自体の描写は最初と最後だけで、中盤は全て、ヨシカの喫茶店から半径5km圏内に生きる人々を描いた短編集。
ここ最近の津村作品の中では、一話がかなり短い部類の小説でした。
やっぱさすがっす!面白かった!
前前作『ウエストウイング』がかなり好きだったのですが、あれはひたすら続く低血圧な日常を繰り返し、じわじわ熱を帯びていく様が素晴らしかった。
それに比べると本作は一編の始まりから終わりまでがかなり短いけれど、それでも津村節全開で、読者の心をフッと軽くしてくれました。
本書のすごいのが、特にストーリー性のないところ笑。
ポースケという祭りを主軸に展開しているようで、祭り自体に面白みは無く、物語としては一編毎に完結しています。
そして一編毎にも大したイベントはなく、ならば何故面白いのかと言われれば、他の津村作品に違わず、登場人物たちの心情描写が一瞬一瞬興味深いから。
『苺の逃避行』では、小学生の恵奈が学校で苺を育てる、ただそれだけの話。
嫌な先生や話のつまらない友達についての冷めた分析、そして実は母親を心配している子ども心が見事に表わされています。
且つ、一見大人びた文章に見えて、あくまで小学生人称であることを的確に表しているのが以下の一節。
何か訊いても、それよりあんた中学受験するの?という話にすり替えられそうな気もする。恵奈には、一日のうちでそのことについて考える時間が一分もなく、いつかまとめて考えようと思っていたのだが、イチゴのプランターの移動を始めてからは頭が忙しく、どうしても中学受験について考える時間が取れない。だから、そのうち考えると言い続けているのだが、もしかしたら自分には、考える気持ちがぜんぜんないんじゃないか。
面白いなー、このダラダラ感。
『ミュージック・ブレス・ユー!!』を彷彿とさせる、地味に甘酸っぱい後味のある作品でした。
『コップと意思力』。本作品の中でも最も分かりやすくストーリー性のある物語。(それでも、一般的な小説よりは圧倒的に平坦ですが。)
主人公ゆきえは、前の彼氏に付き纏われている。
ある日、前の彼から手紙が送られてきて、その中には分かり易くゆきえを罵った文章がズラズラと綴られていた。
ゆきえは気がおかしくなりそうなくらい憤りを覚えるが、手元にあったコップを壁に投げつけない程度の意思力を持っていたことに感動し、そのことを今の彼氏に電話で伝える。
ここの描写は少し可笑しいけれど、案外私たちが日々感じる虚しさと、ちょっとしたどうでもよい感動を伝える力を持っていたのか、読後もすごく印象に残っています。
津村さんはこういう、ともすれば通り過ぎてしまう些細なイベントを抽出するのが抜群にうまいなぁと感心しました。
そして、私が最も心を掴まれたのは『歩いて二分』。
主人公の竹井さんはいわゆる鬱で、電車に乗ることが出来ず、眠たくないのにベッドに入ると働いていた頃の辛い記憶が頭に蘇ってくるから、眠さの極限になるまで眠らない、という生活を送る女性。
頭が邪魔だと思う。人間はどうして、今起こっていないことに苦しんだりするんだろうか。今がなんとか安全なら、なぜそれでいいと割り切れないのだろう。できれば、仕事の間は頭を切り落として、首から下だけで生活したい、と佳枝は思う。でも、寝ているときに前の職場のことを夢に見るのが一番怖いから、寝ているときも頭は要らない。
自分にとって都合の悪い思想を、目の前になくても作り上げて勝手に苦しむ。
他者からすると分かりようもないし、ただ自分が自分を疲弊させるだけなのに止まらなくなる。
こういう気持ちはとてもよく分かります。
そして竹井さんは、知り合った喫茶店のお客さんに連れられ、一人なら絶対に乗ることのない自動車で買い物に連れ出されたとき、以下のような心情を抱きます。
たった一人でいろいろ考えて、怯えている自分は何なのか。他人といたら、階段を降りたことさえ気が付かないのに。
たったこれだけ、ただ人と一緒に車に乗ることができただけなのに、今まで彼女が感じていた鈍い吐き気が、少し晴れた気持ちになる。
『コップと意思力』と同様、こんなにも小さめの幸せを逃さず、抽出して放つ素晴らしさは、個人的に津村さんが群を抜いて上手いなぁといつも思います。
他にも言いたいことはたくさんあるのですが、とにかく読んでいる一瞬一瞬が素晴らしい作品なのでレビューはここまで、
皆さん、ぜひ読んでください!