『平常心のレッスン』 / 小池龍之介
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内容(「BOOK」データベースより)
プライド(慢)、支配欲、快楽への欲求、そして「死にたくない」という思い―。自分のあるがままの心を見つめ、受け容れていくと楽になる。心を苦しめるものの正体を知り、平常心を身につけるための実践的な方法をやさしく説く。
心がざわざわするとき、落ち着ける方法は外的と内的2つあって、
前者はとにかく外へ、正確には他者に話したり旅へ出掛けたり、それまで用意していなかったサプライズの刺激を受け、ざわざわしていた過去をいつの間にか忘れるという状態に持っていく。
後者はとにかく中へ、正確には呼吸を意識したり血流を意識したり、「ざわざわしている」という自分を受容しながら、自力で平穏な状態に持っていく。
今までは外的に、人や環境を巻き込んで自分の逆立った心をうやむやにする手段しか知りませんでしたが、
内的な方法を教えてくれたのは小池龍之介さんの書籍でした。
この手法のいいところは、金と迷惑をかけないところ。笑
この手法のダメなところは、かなり難しいところ。
だからこうやって定期的に、本を読んで練習しなきゃいけないんですよね。
本書では他の作品同様、仏教の思想を日常に取り組む意味と方法が紹介されています。
というか『考えない練習』も『苦しまない練習』も『「自分」から自由になる沈黙入門』も『もう、怒らない』も、タイトル以外全部内容同じですよね笑。
だから今更特筆すべきことはないハズなんですが、私の練習が足りず身に付いていないので、こうやって別の作品に手を出してしまうわけです。
今回の教訓として1つ、これは以前からずっと私の中で意識しようとしていることですが、1章「なぜ、平常心でいられないのか?」で語られる、「心はいつも諸行無常であるから、今がどうであれ必ず変化するのだから気にしても意味ないよね」という事実。
これ、大好きな福岡伸一さんの『動的平衡』論にも通ずるものですが、
今うまくいっていても喜ばない。どうせうまくいかなくなるから。
今調子が悪くても落ち込まない。どうせやがて、調子がよくなるから。
という当たり前のことを、日々意識していないとすぐ忘れてしまいます。
福岡さんは生物学的アプローチでこの事実を証明してくれますが、小池さんは仏教という、単なる概念だけれど、数千年前から多くの人々が信仰しているという固い証拠をバックグラウンドに証明してくれます。
実際私も、なぜか調子が良い日、なぜか調子が悪い日がありますが、そこにすぐ理由を求めようとしてしまう、昨日あれ食ったからとか、さっきアイツに会ったからとか。
けれどそれが良くないんですね、心とはコントロールしづらいやっかいなものだから、流れに身を任せるが良い、という思想。これはホントに常に忘れないようにしていたい。
2つ目の教訓、それは4章「生老病死に平常心で臨む」で語られる、「老いや死を平常心で受け容れているか」という思想。
これは養老さんも以前言っていましたが、全ての悩みは究極は死への恐怖に起因しているということ、
考えてみれば確かに、「あぁ肌が荒れている」「毛が薄くなっている」「彼はちゃんと帰ってくるだろうか」「飛行機は落ちないだろうか」という不安感は全て、一人称あるいは二人称の死に帰する気がします。
ここの受容、に至るには相当の訓練が必要ですし、上述の「心の浮き沈み」に苦労しているようでは到底たどり着けない境地です。
けれど「気の持ちよう」の最終目標はここでありたいし、こうなれば景色も変わって生への喜びなんかもよりくっきり見えると思います。
相変わらず仏教の思想は学ぶべきところが多いし、そもそも「宗教」を食わず嫌いで否定していた自分が少し恥ずかしいと感じさせてくれる作品でした。
死の受容には到底遠いですが、とりあえず1つ目の教訓については早く身に付けたいと思います。(そのためには練習だよ練習!オレ!)