会社の飲み会で「日本戦争映画の変遷」の話題になり、そういえば過去読んだ戦争小説って今読むとどう感じるんやろとふと思い、帰りにKindleでポチった。
いやぁ横山秀夫さん、、、『64』以来やから約10年ぶりに読んだけど、やぱ異次元の引き込み力、、!!圧倒的な圧!!!1日で読み切って放心しました。
第二次世界大戦下の日本に実在した人間魚雷「回天」に乗る軍人を題材とした小説。回天は先端に大量の爆薬を仕込んだ魚雷であり、一度操縦席に入ると内側からは脱出できず、そののちは敵の艦隊に突っ込み自爆する未来だけが約束された「出口のない」非可逆の兵器。小説では現代に生きる元野球部キャッチャーの剛原の視点から始まり、その後は回天の搭乗に志願した、剛原とバッテリーを組んでいたピッチャー並木の戦時中の物語という風に時間を遡る。
剛原が冒頭に投げかける「なぜ並木は回天に志願したのか」という問いに対するアンサーが戦時中の章で為されるワケやけど、読んでいる側としても、魔球を投げたいという夢、そして美奈子という愛する恋人を持つまっすぐで魅力的な並木がなぜ人間魚雷に志願したのかを考えさせられていく。戦争小説と言いつつ、そこは横山秀夫さんの真骨頂であるミステリー性もちゃんと含まれている。
まぁとにかく、
文章が、
うますぎる!
「あぁ、横山秀夫さんってこういうとこすごかったなぁ、、」と噛み締めたくなる。物事や心情をとにかく端的に、「この文字数で表現するための最適解」みたいな文章が連続で出まくってくる。
例えば物語の終盤、同僚の沖田や北の前から並木が姿を消したシーン、
逆光の中、事業服姿の並木は弾む足で兵舎を出て行った。それが並木を見た最後だった。
(略)
子供のような笑顔で言うと、並木は軽快にラッタルを駆け上がり、交通筒へ消えた。それが並木を見た最後だった。
軽快に読み進めている中で突如出てくる話の矛盾に「えっ?」と立ち止まらされ、
その後からこれまた端的に淡々と真相が明らかになってくるという作り、もううますぎて、物語の展開以上に文の美しさに見惚れてしまいます。
そう言ってしまうと、じゃあ横山秀夫さんを味わうなら本作じゃなくても良かったじゃないかとなるが、本作をそもそも改めて読んだのは、戦争が美化されてる印象を受けた過去の作品を再体験するとどう感じるかということを、36歳になった今確かめたいという理由だった。
ただ、15年前に本作を読んだ時の印象とは違い、別に本書はそもそも、戦争を美化したものでは決してありませんでした。
並木は決してお国のために人間魚雷を望んだわけではなく、作中の大半で逡巡していることが見て取れる。
自分は特攻という美名と功名心の虜になってはいなかったか。国家とか軍隊とかの見えざる巨大な意思に同期し、引きずられ、流されてきた。そうではないと言い切れるか。お仕着せの男の生きざまに飛びつき、そこから外れてしまうのが怖くて、生きていたいという本能を無理やりねじ伏せ、封じ込めてきた。他の誰よりも勇敢足らんと虚勢を張ってきた。
戦争はお国をあげて一億総動員していたという大局的な事実とは別に、人一人の視点で見たときに、皆が皆こうやって当たり前に逡巡していた。けど各々が各々を麻痺させることで、結局全体として戦争に向かって行ってしまった、そんな構図が炙り出てくる。それは規模は違えど、今の大企業病や貧困問題と本質は全く変わってないという悲しい事実に行き着く。歴史ものを知って過去を学ぶというのはこういうことかと圧倒させられた。
俺は人間魚雷という兵器がこの世に存在したことを伝えたい。俺たちの死は、人間が兵器の一部になったことの動かしたい事実として残る。それでいい。俺はそのために死ぬ。
「読みやすい戦争小説」って言うとなんか語弊も矛盾も生んでしまいそうやけど、広く伝えるための手段として本書は間違いなく良書です!