『断片的なものの社会学』 / 岸政彦
★ × 96
内容紹介
路上のギター弾き、夜の仕事、元ヤクザ…… 人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。 社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ。
◆「この本は何も教えてはくれない。 ただ深く豊かに惑うだけだ。そしてずっと、黙ってそばにいてくれる。小石や犬のように。私はこの本を必要としている。」 一生に一度はこういう本を書いてみたいと感じるような書でした。ランダムに何度でも読み返す本となりそうです。 ――星野智幸さん
『街の人生』で注目を浴びた岸政彦さんに初挑戦。
社会学者の肩書きを持つ方の本をちゃんと読んだのは古市憲寿さん以来です。
本書は内容紹介にあるように、世の中の「解釈できない出来事」を社会学のアプローチであぶり出す、社会学とは言えエッセイとしての意味合いが強い作品。
一つ一つの節に強い相関はなくトピックも飛び飛びで、どこを摘まんでも読み出せるようになっています。
ただトピックの出処は、岸さんが過去に出会った様々な人々から得られた情報ですので、作品全体として世を眺める、まさに社会学の本と呼べるようになっているのがすごい。
以下、個人的に興味深かった節をレビューします。
『笑いと自由』。
人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
んで、本節では「笑うこと」をひとつの自由としています。
追い詰められた時、どうしようもない不幸な話を聞いた時、怒るでも悲しむでもなく、笑ってしまうこと。
これに関しては「なんで笑っていられるの?」と一見憤りを感じそうですが、そうではなく、残されたただひとつの自由が笑うことであると言っています。
昔脳科学者の池谷裕二さんが、口を開けることで脳に酸素が行き渡るというようなことを言ってましたが、追い詰められた状況でヘラっと笑ってしまうことは全面的に悪いことではないのかなと思いました(あくまで相手を選びますが)。
『手のひらのスイッチ』。
完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰も傷つけることもない。しかし、「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人々と、そこに含まれない人びとの区別を、自動的につくり出してしまう。
この節では、結婚式を挙げる、といった「一般的で良いとされているもの」に臨んだ時、或いは子どもができないことや同性愛であることなどを知った時、なぜ会話の中で知らず知らずのうちに「一般かそれ以外か」のボーダーラインがうっすら引かれてしまうのか、ということに触れています。
著者は一つの案として、引用で書いたように、「個人的には」「私的には」こう思うという主観を入れることと書いています。
けれどこの方法で全てがうまくいくといったように暴力的にまとめるのではなく、「私は本当にどうしていいのかわからない。」と言っているのがすごく好感が持てます。
そして本書で、そしておそらくここ数ヶ月読んだ本の中で最も感銘を受けたのが『自分を差し出す』。
トピックとしてはよくありがちな、「かけがえのない自分なんかいない、自分探しなんてない。」といったもので、トモフスキーの『自分らしさなんて』にも出てくるこのような言葉が私は好きで、思い出すたびに何も無理せず自然体でいようと意識することができます。
けれど本節で更に踏み込み、著者はこんなことを言っていました。
カネより大事なものはない。あれば教えてほしい。これに対し、こう言ったものがいた。カネより大事なものがないんだったら、それで何も買えないだろ。
これは比喩であり、要するに自分の人生がかけがえのないものである場合、それを捨てることができない、なぜならそれよりも大事なものがないから。
しかし、自分の人生がどうしようもなくて大事に思えないからこそ、人は上を見ることができて、大半は棒に振ったりドブに捨ててしまうけれど、その中で秀でるものも発出していく。
誰しもの人生が完璧で平坦なものである場合、比較すらできず幸不幸すらなくなる世界が広がってしまう。
本節を読んで、悩むことや悲しむことの意義が分かったような気になりました。咀嚼できるまで、今後も何度も読み返すだろうなと思いました。
終わり方、最終節はタイトルをそのまま体現した構成となっており、始めから余すところなく楽しめる完璧な作品でした。
個人的に今年のベストかもしれません。是非是非手に取ったください!!