1年ぶりくらいにミント神戸に行くとごっそり店が変わってて、なによりどの層にも需要がないと思われてた4Fに子ども服の店がドーンと構えられててオーッ!となった。店自体は高くもなく安くもなく良くもなく悪くも無かったけど、重要なのは子ども向けの店ができることそれ自体やから嬉しい。これで三宮にファミリー層が流入する→公園が増える→道路が減る→車なんて要らないよね、路面電車でも作ろう、みたいな未来を描いてしまう。
前のブログでメイウェザーが大晦日にたまアリに立つだけでも意味があるって書いたけど早速雲行きが怪しくて笑った。なんらかの交渉に向け佐藤大輔さんが渡米したらしいけど、、こうなりゃ完全なボクシングルールとか、メイウェザー全面有利な条件でもいいから、ただただ来てくれ!となってまう。こう思うこと自体100億プレイヤーの思う壺なんやろうけど、イヤそれでもいいよ、世界からニッポンの大晦日が注目されるだけでも誇らしい。UFCはフライ級が廃止されたことで一流プレイヤーが堀口を狙いに、つまりRIZINに眼を向ける流れになってるし、ONEではアルバレス移籍によって青木と3度目の対戦が組まれそうやし、2018年はマジでPRIDE以降の日本に再び火を灯した年になってる。そんな年やからこそメイウェザーのゴタゴタでもっかい人気を落として欲しくない。榊原さん頑張って!
『スノーデン』を観て、ドキュメント版の『シチズンフォー〜』を観て、本として『暴露』を読み終えた。
ジャーナリストの著者視点で描かれてて、第1, 2章はスノーデンとの出会いから暴露についてで、映画をなぞるような内容が重複してたけど、第3章がアメリカの情報収集の技術的な詳細、第4章がプライバシーが筒抜けになることの恐怖、第5章がジャーナリズムについてで、それぞれめっちゃ見応えがあった。特に4, 5章!4章で謳うのはアメリカが如何に国民に「テロを防ぐためなら、プライバシーを多少見られるくらい我慢せえ」精神を植え付けてきたか。俺も別に俺の取るに足らない生活を見られたとこで支障は無いとずっと思ってきた。けどそれが如何にヤバい状態かってことを著者は4章で再三訴えてる。
誰かに見られるだけで、人間の行動は大きく変化する。まわりに期待されているとおりに行動しようと必死になり、恥をかいたり、非難されたりすることを避けようとする。そのため、人は一般的にすでに受け入れられている社会的慣習に忠実に従い、決められた境界線の内側にとどまり、基準から逸脱しているとか異常とか思われそうな行動を避けるようになる。
人はただ国家の監視に怯えたくないからといって、権力者の忠実な信奉者になるべきではない。監視を免れるための対価が、問題のある挑発的な反対意見を慎むことであってはならない。体制派コラムニストの従順な態度や伝統的な知恵を受け継ぎ、彼らの猿真似をしないかぎり、そっとしておいてもらえないような社会など望むべきではない。
「誰かに見られている」という意識で行動が変わってしまうというのは日常でもある。電車とか仕事とか店とか、人に見られてる意識は子どもが生まれてからいい意味でも悪い意味でもより強くなったように思うし、完全な1人時間って日常でホンマに少ないから、著者が指摘する「決められた境界線の内側にとどまり」てゆう言い方は自分のことを刺すようやった。それをアメリカは国を挙げて国民に強いてたという意見が、スノーデンの暴露した1~3章を読むと真実やったことが分かる。んでそっから5章に繋げて「ジャーナリストとは何か」を語る。スノーデンの暴露を報道して以降、著者の周りではPCの盗難や反テロ法に基づく拘束など、言論の自由を掲げる国であってはならない行為を受け続け、それでも屈しない態度は4章で言う「社会的慣習」「境界線の内側」に決して甘んじない強さがあって読んでてちょっと泣きそうやった。清水潔さんは報道の意味が「再発防止」にあると言っててそれはそれで感銘を受けたけど、映画観てドキュメンタリー観て本読んで、一連の流れを知った上でこの第5章で「間違っていることを間違っていると言う」ことを大切さを問われると、今の状態に何となく甘んじている自分を恥じる気持ちにもなった。