『ヘルシンキ 生活の練習』読了。グサグサに刺さって年始早々サイコー!!
社会学者の朴沙羅さん著。2020年春、まさにコロナ禍開始の合図とともに京都からフィンランドのヘルシンキに子ども2人と移住し、文化や制度の違いを中心に日常を描いた社会学(+エッセイ)。昨今の北欧バンザイ論に乗っかるでもなく、ニッポンを痛烈に否定するでもない、「なぜ、どこがどう違うのか」を冷静と情熱で描き切った、みたいな感のある本。マジで見事。個人的に気になってたことをいくつも言い当てられた所もあり、2022年しょっぱなからアガりまくりでした。
フィンランド教育を描いた「技術の問題」の章。日本でたびたび目に/耳にする「〇〇する才能がない」といった紋切り型の評って、何かが間違ってると思いつつもつい口に出しちゃうけど、フィンランドではそれらすべては「スキル」の観点で語られるという点は目から鱗やった。プログラミングやスポーツのように、人付き合いが苦手だったり根気がないなどの定性的な性質も、単にスキルが不足してるだけ。「じゃあもうちょっと練習しましょう」という、あっさりとした対策が提示される。
思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子供達の通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている。
これ、めっちゃ気ぃ楽。才能や性格と捉えてしまってた全ての事象を「スキル」の尺度で考えてしまえば、「できない」ということが決して悪いことではなくなるし、そもそも「できない」という概念がなくなる。練習すればいいから。いいところ/悪いところという二元的なものでなく「練習が足りてるか不十分か」という一次元に射影することができる。これはもう、、今後の生活で何度もフラッシュバックさせて身につけよう。
移民について描いた「ロシア」の章。ここでたびたび出てくるのは「悪いのは人でなくシステム」だという観点。例えばフィンランドにおけるコロナの新規感染者数は、アフリカや中東出身移民の割合が高いらしく、それは彼らが地下鉄や電車を使った出社を要する仕事が多かったり、個室がなく複数世代同じ家に住んでる割合が高いことに起因してるらしいけど、
そういうふうにして感染した移民が危険なのではなく、まず危険なのは感染症で、次いでそのように感染を不平等に配分してしまう社会の仕組みの方である、という話。これも感覚では分かってるけど、どうも日本に溢れる言葉は「人」を対象にしたものが多い気がする。
経済難民についても
経済難民の何が悪い。悪いのは経済難民が生まれるような経済状況と、それをもたらす政治状態のほうだ。移民の何が悪い。よりよい機会を求めて移動できるのなら、移動して何が悪い。より豊かな国の人間の財布をあてにして何が悪い。
とあり、あぁ、こうやって常に世の中の問題をシステムの問題として捉える眼こそが社会学なのか、俺もこの眼を持ちたい、と強く思った。
(こんなのは会社とか日常に死ぬほど溢れてる。。例えば金曜の定時前に出た問題が月曜に解決してなかった場合に糾弾されるのをよく見るが、休日挟んでまで解決せねばならん線表を引かざるを得ないそのシステムが問題なのだよ。)
上記の2つは今後特に自分が生きる上で身につけたい新しい視点なので書いたけど、そのほかにもひたすら目から鱗な論が多々並んでてホント素晴らしかったです。(「戦争を悪いことだと前提としていない」フィンランドを描いた「チャイコフスキーと博物館」の章もヤバかった)関西弁のノリも超オモロイし、皆さまマスト本!ぜひ。