blackbird booksで取り寄せた『のどがかわいた』読了。読み途中の藤井聡子さんの本の後に読む予定やったが、何気なくパラパラめくってたら止まらんくなってそのまま1日で終わってもた。
著者の大阿久佳乃さんは本書執筆当時10代。好きな詩や不登校だった学生時代、父親のことなどを綴ったエッセイ。感覚的に、ミステリーやノンフィクションなど知識や経験が物を言う分野は歳を重ねた著者の方が深みがあるが、本書を読むと、エッセイにおいては年齢は全く関係なく、むしろその時代のその人が言うからこそ意味がある、と言える分野なんだと心から感じた。そういった意味では33歳のサラリーマンの俺が拙い文章でこうやって日記を思いつくまま書くんも何かしら意味があるはず。もっと言うと今4歳の娘が近い将来文字を覚えた際に「日々の出来事を紙もしくはパソコンで綴っておきなさい」とつい言ってしまうクソ親父になりかねない。そう思わされるほど、本書から伝わる著者の鋭い感性に感銘と影響を受けた。
苦しい時代に苦しみ(自分の内面)と向き合い、言語化できるまで分解する様がとにかくすごい。例えば日々苦しみを感じていた中学時代、「人生」と言う言葉には過去と未来を含むが、「現在」だけが抜け落ちていると感じていた、というシーン。
辛いのは今である。今辛いのだ。乗り切るとか乗り切れたとかそういう話をしてるのではない。感情というものは今ここにしかないもので、あとから見た感情は、感情などでなく、感情の思い出である。
時間が経つことを仮定して癒される苦しみならいい。乗り越えることが前提の言葉で救われるなら、それはもう、乗り越え始めている。
とにかく今が苦しい場合、外野から幸せ語られても入り込む余地などない!と言う怒り。怒りというか、書きっぷりからすると諦めが近い。けどこの思いについて、歳を重ねて19歳になった視点から、中学時代に苦しむのは、大人に比べ過去の分量、つまり”辛さの先にある未来”が来た経験が少なすぎるからだと考察している。
普通、この境地までいかない。怖いから。少なくとも俺は、学生時代のなんとも言えぬ嫌な感じを言語化でけへんししたくないし、「ああいうモンだよ」と定義づけせんまま生きてきたし、「そういうモンだよ」と娘や息子にも将来言ってまいそう。けど大阿久さんのように、身を削ってでも言語化してくれる人にこうやって触れられるから自分の価値観がまた少し広がるってモン、1300円でそれができるって読書ってサイクー!
本筋から逸れたけどもうひとつ学生時代の描写でグッときたシーン。
何をするにつけても目標を目指す癖がつきすぎて、その場に生きている意識をなくしてしまう。だから自ずと自分の首を絞めている状態になっているが、絞められていない状態になるのもまた不安なのだ。そうしてそのままストレスがたまり、動けなくなる。
めちゃわかる。学校で繰り返される行事・テストに辟易したい、いっそ盗んだバイクで走り出したいと思いつつも、
それらを失うことへの不安や、右倣えから外れることへの恐怖も同時にあって動けないという感覚。普通(もはや普通って何?の世界やけど)は、そのストレスを感じつつも時間の経過や睡眠、カラオケ、ゲーム、部活、。。など各々のやり方でガスを抜いてまた明日から頑張ろうと自分を麻痺させる人が大半なんやろけど、大阿久さんはまたしても言語化、言語化、言語化。その苦しみと向き合い、不登校になろうとも言語化を辞めずこうやって書籍にまで昇華してくれる。
その文を読んで救われる学生が1人でも多くいてほしい。自分用、或いは将来子どもに手に取ってもらう用に家にずっと置いておきたい。