『差別はたいてい悪意のない人がする』読了。
この1年弱マイノリティやジェンダーの本を普段より多く読んで、何となく自分の価値観がアップデートされて去年よりはマシな人間になったと勝手にうわついてたけど、本書で「差別は基本的になくならない」という真理を読んでカーフキック喰らったようやった。
本書がいうのは、近年の大きな時代のうねりで一応多様性の理解が広がって、大体の人(特に若者)はとある物事を二元的に分けたときに、他方を差別してはいけないという二値の感覚は持ち合わせるようになったと。
けどそれが多元的になった途端に物事は複雑化する。例えば「黒人」×「男性」と「白人」×「トランスジェンダー」といったように要素が掛け合さって多次元化したときに、人は必ずどこかの多数派に属し、そうなったとき必ず差別が生じる、という意味。
例えば韓国人がイエメンからの移民を拒絶した騒動があり、約70万人が署名したが、性別で見ると女性の率の方が男性より高かったらしい。男女の軸で見ると女性は差別される側、けど自国民 - 他国民 で見ると、女性としてでなく韓国人として差別する側に回ってしまう、という話。
差別は私たちが思うより平凡で日常的なものである。固定観念を持つこともきわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。
世の中が間違っているのではなく、不幸な状況に置かれた被害者の方がもともと悪い特性を持ち、間違った行動をしたためにそのようなことを経験するのだと考えてしまう。私たちが暮らしているのは公正な世界だという思い込みのせいで、かえって公平世界の実現が難しくなるという矛盾が生じている。
これはホンマ刺さる。俺も状況的に「子ども育てる共働き世代」という枠にハマることが多く、こないだも公園で多くの保育園時と遊んでたらうるさいと苦情が来た。それに純粋に憤りまくってたけど、例えば近所に死期を迎えた人が住んでると仮定したら、その憤りは誤ってるんちゃうかと迷いが生じる。物事はいつだって多元的で、どんなにムカつく奴が目の前にいてもそいつを二元的にバッサリいくことはできない、という、もうどうすりゃええねん!と、読んでる途中、爆発しそうになりました。
けど本書の救いは終盤、そうやって生きづらい世の中でもそれでも尚、時間をかけて変わってきたことがいくつもあるんだよと背中を押してくれるところ。例えばセクハラという言葉はかつては寧ろ「男性差別じゃん」と逆張りする流れがあったが、それもじわじわ熟成を重ねようやく悪であるという共通認識に成長した、という例が出てきた。
不平等について語る会話が「私は苦しいけれどあなたは楽だよね」という争いになっては解決策を導き出すことは難しい。その代わりに「あなたと私を苦しめる、この不平等について話し合おう」という共通のテーマについて語るべきなのである。
誰かを嘲弄するような冗談に笑わないだけでも、「その行動は許されない」というメッセージを送れる。冗談に必死に食らいついて、その場に重々しい雰囲気を漂わせるか、少なくとも無表情で、消極的な抵抗をしなければならないときがあるのだ。
日々「ん?」と立ち止まっては、けど流してしまう違和感をせき止め、この違和感はなんだったのかを見事に言語化してくれるような素晴らしい本でした。マスト!