『聴こえない母に訊きにいく』 / 五十嵐大
素晴らしい作品でした、、胸がいっぱいです!
「コーダ」である著者。「Children Of Deaf Adults」、つまり両親とも聴覚障害者で、聴覚障害のない子を指す(ちょっと前にそういう映画あったな。観たい)。
40歳の著者が、耳の聞こえない母親や周囲の人間にインタビューし、母はどう生きたのか・自分はどのようにして生まれたのかを紐解いていく作品。
まず、40歳の方が実の親やその兄弟、恩師などにあたることで母親の生きた軌跡を辿っていく、というその事象にめちゃクラった。妻の影響で、実親とうまくいかないことが描かれた作品を最近やたら読んでたからか(笑)、本作から滲み出てる親への尊敬・愛情・慈しみなどのプラスの思いが余計に伝わってきた。自分自身も親が65overとなり、孫の世話をしたがる様子を度々疎ましく思ったりしてしまうが、そんな自分を恥ずかしく思う程には著者の優しさにやられた。
設定上、当然ながら家族ものの作品ではありつつも、歴史・社会・人権・差別と、様々なテーマを扱いながら平易な言葉で訴えかけてくるのも見事。とくに聴覚障害に関する歴史的背景などは、これまで一切知る機会がなかったためとても勉強になった。今では一つの言語として確立されてる手話やけど、つい数十年前までは良しとされておらず、口話法一辺倒だった時代に苦しい思いをして話すことを練習させられていた歴史があったなんて知らなかった。また、コーダが「親に言いたいことを伝えられずに苦しむ」という悩みがあるということも、想像すれば出来そうなもんやけど、これまで想像にすら至らなかった。言語的マイノリティという言葉も初めて知った。とにもかくにも、自分はほとほと無知であることを思い知らされた。
母が12歳から通い始めたろう学校の恩師である大沼先生に著者が取材するシーンは、なんとも言えない尊さがあり泣いてしまった。80歳を超える恩師が、70歳を超える母親について当時を思い出してその息子に語るという構図の壮大さ。自分の親がどう生きてきたなんて、マジでほんの一握りしか知らんことに気づかされてなんとも言えない気持ちになった。
作品は後半、優生保護法について著者が深く取材していくシーンに移る。著者の母親が子を産まんとする時期、正に世間では「優生保護すべき」の潮流があり、そのための強制不妊手術や人工妊娠中絶などが肯定された時代。それを知った著者は、もしかしたら自分は優生保護の観点で生まれる機会を奪われていたかもしれないことに気づく。それまでで母親の歴史を追うことで障害者の痛みを深く知った上で、この悪き法律について知る、この辺の著者の心の動きはなんともツラかった。ただしより考えさせられたのは、「じゃあ多様性を認め出した今の世の中は幸せ一辺倒なのか?」と投げかけてきた場面。
「なんとなくみんなが賛成しているから、自分も賛成しておこう。」という右に倣え主義。今で言う多様性ある社会などはまさにそう。ただし
それは思考停止でしかない。そういったスタンスで生きる人が増えてしまうと、もしもまた優生保護法みたいな法律ができても、周囲に流されちゃって賛成してしまうかもしれない。
ここはくらった。もう、その通り過ぎてぐうの音もでない。自分の中で、「世の中の流れがそうだから、自分もそう。」と短絡的に考えてしまってる事象がなんと多いことか。そうではなく、あくまで自分の頭と物差しで物事の絶対値を評していかねば、と強く感じた。