『ヒロインズ』 / ケイト・ザンブレノ
第2部読了。思ったとおり、後半に差し掛かって指数的に熱が上がってく作品。特に最後100ページに描かれる「なぜ文章を書くのか」に関する強い考察はただただ痺れた、、さすが名著、やられました!
作品に流れるヴァイブスは第1部と同様、著者・ケイトが、「夫の一部」とされてきた著名な作家を夫に持つ過去の女性作家たちの生涯をさまざまな角度から引用しつつ、現代に浮かび上がらせていく作り。
20世紀アメリカの代表作家であるF・スコット・キー・フィッツジェラルドの妻・ゼルダ・フィッツジェラルドについては、第1部でも描かれていたが第2部も健在。
統合失調症を発症しサナトリウムへ入院し、療養期間中も小説を書き続けたが、病院の火災に巻き込まれて最期を迎えるという悲劇の生涯を送り、夫の陰で「ビョーキ」とされたゼルダを、時代や歴史への痛烈な批判を浴びせつつ、異常なまでに熱を帯びた筆致で描くことで蘇らせようとする。
女性は働きすぎてはいけない、女性は芸術家になるには繊細すぎる。ヴァージニア・ウルフが書くことを許されたのは1日たった1時間だった。ゼルダは2時間。
ゼルダが作家として成功しなかったのは、自分が病気だと信じ込まされたからだ。彼女の芸術が才能からではなく、病気から生じていると洗脳されたからだ。あまりに強く思い込まされすぎて、本当に病気になってしまった。
また、第2部は過去の偉人を描きつつ、著者自身のエピソードも第1部より多く描かれる。それらは、もちろん一貫して描かれる本書のテーマであるジェンダー不平等を突いた文章ではあるものの、表現一つ一つがイチイチ芯食ってて面白い。
例えば、元恋人に対する
もちろん彼は「鋭い洞察力と豊かな感受性があるから、女性をモノ扱いしても許されるノイローゼ気味の男性」という伝統の流れを汲んで小説を書いたに違いない。
表現、、、国内作家でも思い当たる男性作家あり(爆)
あるいは批評家であるアンジェラ・カーターのフェミニスト文学批評の中に出てくる「女の真似をする者」という評に対するカウンター、
フェミニスト文学批評は、フェミニン過ぎる女性たちを罰するような言説を鵜呑みにしているところがあると私は思う。それはほかならぬ家父長制から発された、過剰さへの憎悪をそのまま反映してはいないだろうか。
女性たちはエンパワーされたヒロインを描き、エンパワーされた存在にならなければいけない。もしそうでなければ、彼女たちはとるに足りない存在として、退けられてしまうのだ。
そして、ラスト100頁がただただ圧巻でした。それまでは正直、ちょっとくど過ぎるくらいの偉人たちの引用、
そして見方によっては、悪く言えば世の中に出ない作家としての著者の「僻み」みたいにも見える意見にちょっと飽きが来てたが、
それは全てラスト100ページへの布石だったことが最後に判る。
「なぜ、女性が文章を書くのか。」日記文学が良しとされてこなかった歴史を追いつつ、それでも尚読み手に「書くこと」と説くその筆致。ちょっと長すぎますが特に刺さったとこ下記に引用します。
書きなさい。とにかく、何がなんでも書きなさい。うまく生きられず自分がめちゃくちゃになってしまったら、それについて書いて。そこから学びなさい。あなたがこれまでしてきた経験が、文学の題材としてふさわしくないなんていうくだらない言葉を、絶対に、絶対に信じてはだめ。
私的なことを公的な場で書くという選択は、政治的な行為なのだ。不完全でめちゃくちゃな自分を、ちゃんと書くために。消えてしまいたいという欲望と戦うために。屈辱と罪悪感を覚えさせようとする企てに、対抗するために。自分の内に飲み込んで耐えるのを拒むために。自分たちを二重線で消してしまいたくないから。沈黙したくないから。あるいは書くことによって、その沈黙の周りを、ぐるぐると回り続けたいから。
重要なのはきっとただ書くことーーあぁ、本当にそれだけーーとにかく書いて、少なくとも生きているあいだくらいは、消えてしまうことに抵抗して。使えるチャンネル全てを使って、叫び、歌い、焼き尽くすのだ。全部やってみなくちゃ。ただ欲望と必要にかられるままに書く。無視されることを拒み続け、妨げられることに抗って。